西田利の日記

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与謝野晶子

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E6%99%B6%E5%AD%90
1904年9月、半年前に召集され旅順攻囲戦に加わっていた弟を嘆いて『君死にたまうことなかれ』を『明星』に発表。その三連目で「すめらみことは戦いに おおみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であったが国粋主義者であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に「ひらきぶみ」を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義を非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月の批判を一蹴した。

この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」というイメージが強いが、第一次大戦の折は「戦争」という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて好戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、昭和17年に発表した「白櫻集」で、以前の歌「君死にたまうなかれ」とは正反対に、戦争を美化・賛美し、鼓舞する歌を作った(例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」)。このようなことから、反戦家としての立場に一貫性がなかった、あるいは時勢により心情を変化させた転向者であると言える。