西田利の日記

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日本は単一民族国家か否か

http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4362004.html
発言の正しさの基準として2つ考えられます。一つはその言葉が正しいかという視点、もう一つはそれを口に出すことが正しいかという視点です。

 人間常にお世辞を言えば良いのであればこんな簡単なことはありません。しかし時には考えの違う相手に別の考えを伝える必要があります。考えが違う人に向かって「日本は単一民族国家である」などと不正確な事を発言すると、ではラモスは日本人ではないのか、アイヌ人はどうなのか、という瑣末な定義合戦が始まります。言っている方は、ほとんどそうだ、という軽い気持ちで(粗雑な意識で)言うのですが、言われる側はこれがビンビンと神経にこたえるものです。これをもしも「日本人の大部分は日本民族である」と言ったならば、この言葉は数学的な正しさを持っており、考え方の違う人たちにも受け入れざるを得ない事実であり、「では日本民族以外の少数はナニか」という議論の発展があります。大部分がそうだ、と言う話を、AAはBBだ、という誤った数式に置き換えてしまうのは、言っている側には誤差という認識でも、言われる側には侮辱となることがあるわけです。近所の居酒屋で気勢を上げる時には事実であった言葉が、考えの違う人の前で話したり、それがマスメディアに載ったり、あるいは海外に伝わった場合には、ぜんぜん事実では無いということになります。言われる側の気持ちというのは、言う側から予想も出来ないほど敏感で傷つきやすいものです。大勢の前でしゃべる機会がある人間はそれを知る必要があります。「大阪の人は面白い」「鹿児島県人は焼酎を飲む」「女は運転が下手だ」「男は家事をしない」ぜんぶウソです。考え方の違う人の視点から見てもその言葉が正しいかどうか。言葉の数学的な正しさと言うのは道徳の問題ではなく、議論の技術として必要なことです。

 もう一つは、それを口に出すことが正しいかどうか、という視点です。こんなことは私が説明する必要がありません。ラモスに向かって「日本は単一民族国家です」と言うのは、ブラジルに帰れ、と言っているようなものでしょう。これは仮にその言葉が正しかったと仮定しても、それを言うことが間違っています。おっぱいが小さいですね。月給が少ないですね。太っていますね。つまらない仕事ですね。お父さんは実はガンなんですよ。・・・だってホントの事でしょ、というのでは小学生です。発言者は常に自分の声がどこまで届くかを意識する必要があります。「心臓移植なんて、俺は他人の心臓で生きるくらいなら死んだほうが良い」 この言葉は美しい詩であるかもしれませんが、心臓病で手術を待っている16歳の少女の耳に届く可能性があるかどうか、これを言う前に考える必要があることはあきらかでしょう。

 中山成彬は、高校の成績がどうだったかは知りませんが、上記2つの視点から発言者としては落ちこぼれです。おそらく、取り巻きに受ける話題がそのまま日本中で受けると勘違いしたのでしょう。しかし、彼を見習うべきなのかもしれません。多数に迎合して調子の良い事を言い、少数を傷つけて省みないと言うのは、首相、大臣、東京都知事大阪府知事など見ても現在の日本ではスターです。』