西田利の日記

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文章

http://world.newssc.org/system/2008/05/18/010837092.shtml

17日晩23時、夜色は墨のように黒く、おりからの大雷雨の中、60人の日本救援隊員の車列が道路上の瓦礫に揺られて地震の重災区四川省北川県に入った。このとき、今回の巨大災害から130時間近く過ぎていた。これは5月12日に大地震発生後罹災地に到着した最初の外国専門救援隊であり、また新中国成立以来の特大自然災害後に初めて受け入れた外国専門人員の救援でもある。


 白昼、新鋭機器と工具を携帯した彼等は青川県の捜救活動を終了して、生存者を発見しなかった。だいたい夜半に北川県曲山鎮のある中学の廃墟上で徹夜で捜救を展開した。

 情報では、ここには1500人の学生が埋もれていて、中国側の救援人員がすでに700人の生存者を救出して、併せて70余りの遺体を捜し出した。

 “まだいることを願う”

 日本救援隊は青川に16日午後に到達して、連続作業16時間、17日夜明け方に2体の遺体を捜し出した。“私たちはたいへん残念に思っていて、たとえひとりでも良いから生存者を捜し出したいと考えている。” 海上保安庁の大川雅史は厳しい顔で話す。

 昼ごろ、第1次日本救援隊と後から到達した第2次の合流の後、すぐ北川に出発した。第2次の部隊はセメント切断機などの大型機械と3匹の捜索救助犬を持って来た。

 救援隊中に2名の女性看護師がある。川谷陽子は“最も主要な任務はすぐ生存者を救助することだ!”と決意を述べる。

 村岡嗣正は消防庁の参事官助理で、16日すでに一晩中作業をした。“我々は一刻も早く現場に着き、経験と能力によって、先進機器を使って捜救することを切実に希望している。まだ希望があるか? 私は有ると信じる。最大の努力を尽くす必要がある。”

 その他の隊員も、全力を尽くして行う必要があり一同の信念はわずかも低下せず来たときの気持ちと同じで変化がない、と言う。

 国内ですでに12年の大型災害捜救の経験がある大川雅史は、中国に派遣されることをたいへん光栄に思うと言う。“これはまた本組織の光栄です。”

 これらの隊員はそれぞれ、警察庁海上保安庁消防庁、日本国際協力機構と外務省などの部門から来ている。ある人はイラン大地震インドネシア地震津波の捜索救命に参加したことがある。彼等はただ日本語と少しの英語が分かるだけで、このため多数の中国語通訳が配置された。


 無言で引き上げる隊員たち

 日本隊員の第1捜索現場は青川県都の開放街です。青川県の漢方医院の家の楼の倒壊した場所で、宋雪梅という名の女性と彼女が75日前に産んだ女の子がここに埋まっている。

 隊員たちは16日午後に現場に到着した後、すぐに人が埋まっている大体の場所を確定して、その後警戒範囲を決めて、一刻も休まず捜救を開始した。

 夕方頃、生命探測機にはすでに生命存在を探測することが出来ないけれど、しかし、日本救援隊は依然として徹夜で捜救する − 生きているならその人を見るまで、死んでいるならその遺体を見るまで − と決定した。

 “見たところ、罹災者の生存の希望は大変低い、しかし、以前にはこのような時に生還者を救出する先例がある。”と、小泉崇隊長は話す。

 救援人員を3班に分けて、輪番で作業を行い、常に母親と女の子の具体的位置を確認する。“日本ではこんな惨烈な捜救現場は見たことが無い。”と、隊員中島康は話す。

 記者からは掘っている現場が見えて、橙色と藍色の2色の服を着た救援隊員は瓦礫の中で懸命に作業していて、少しの間機械を用いて、また少しの間手を使う。彼らの周囲は裂け目だらけで、まだ崩れていない壁がある。捜救の途中で何度も余震が発生して、街道の両側の建物の残りくずが粉々に落ちてザーザーと音を立てるのが聞こえる。

 17日夜明け方の4時、交替して下がった救援隊員は地面に服を合わせて眠る。記者は質問する、なぜよい場所を捜さないか? “私たちは捜救者であって、いかなる情況下でも常に命令に従わなければならない。”1人の隊員は厳粛に話す。

 明け方7時25分、ついに母と娘の2人の遺体を捜救人員が両手を使って掘り出して来た。日本救援隊全員は遺体に黙祷する。


 “日本隊員の辛労に感謝する” 55歳の中国の母親の張香玲は、ただ娘の遺体を見ただけだったけれど、しかし“日本隊員の辛労に非常に感謝する”と言って、また同時に、彼女は最後に娘を見る機会を得た、とも言った。

 傍らの群衆も同様に話す:“あなたたちが来ることをとても歓迎する。多くの希望を持って来た!”

 16日晩、付近の中国住民は自発的に幾箱かの政府放出の即席ラーメンと湯を持って、日本救援人員に無料で夕食を提供した。これは、この一日中、彼らが食べた唯一の暖かい食事だった。

 17日の昼は彼らは両餐雑炊を飲んで、晩は弁当を食べた。


 日本国際協力機構中国事務所副所長藤本正也は話す、今回の災難で2つの事で大変深い印象を受けたが、一つは中国政府の反応が俊速で情報公開が早かったこと、二つ目は中国民衆に地震以後に現れた団結と協力で人の表情を変わらせた。


 日本のほか、ロシア、韓国、シンガポール三国政府が派遣する専門救援隊は同様にすでに重罹災地区で捜救作業を開始した。


 中国外交部発言者は話す、地震災の害発生以後、いくらかの国家が罹災地に救援人員を派遣したいと表明した。“私たちは近隣と敏速の原則に基づいて決定した”、“私たちはこれらの国家の政府と人民が中国人民に与える同情と支援に深く感謝する。”』